おぼえがき

なにをかいわんや

もしも僕が、と問われた話

少し前の日記からの考え事です。

 

空論するのが好き

だらだらと非現実的な仮想の話をする友人が何人かいる。徒歩圏内の近所の人や、移動に何時間もかけないと顔を見られないような遠くに住んでいる人やら、さまざまだ。

付き合いが10年以上にもなり、昔からそんなような話を長らく続けている人も、知り合って1、2年で、つい最近になって話の内容が変わってきた人もいる。

もしもこんなことが起きたなら・出来たなら、この事象についての考察、このエピソードはどうか。共感するのしないの、想像の話を延々とする。日常には直結しない思考ゲームをだらだらと繰り返す。

ときに酒を飲み飲みやってるので頭が回らず、話が二転三転、結論は出ない。大抵は時計を見て、「もうこんな時間か」となり、しゅんっと雑に収束して終わる。メールの場合、良い頃合いでレスポンスが無くなり、ああ寝たかな、と思って話は突然終わる。どちらの場合も、後日、話の続きは大抵しない。

 

 

もしもの話

そういったコミュニケーションが好きなのだが、ある友人と園子温の映画「ヒミズ」の話をしていたとき、「もしも僕が、あなたのことを殺そうとしていたらどうしますか」という仮想のクエスチョンを投げられた。

遠距離ではなく、顔を突き合わせての対話の中である。それまで和やかに与太話を繰り返していたが、その裏で私の命をどうこうしようという意図や権利があったら…という話。なんということを聞くのだ。言葉だけで捉えると、えらいことだ。

私は即座にうまく捉えた返答ができなかった。前提条件を確認(あなたは超越的ないわゆる死神なのか、殺人をしたいマンなのか、何人かグルなのか、単独なのか、意図は何か)するくらいで、話が行き来して、いつも通りぼやけてしまった。

当たり前だが、そんなこと今までで一度も言われたことないので、不覚にも多少面食らったのかも知れない。極めて変な話題だ。

そのよくわからない仮定の問いかけの言葉が強すぎて、翌朝にチャリで職場に向かう間にも思い出された。

 

 

ほなどうなんやということを考えた

・当該の発問者が私をそうするとしたら

彼は何も意味がなければ私を殺さないと思う。その行為をすることの意味は気になる。
どうやって実行していくのか気になるから、まんまと話に乗って、うっかり実行を許すかも知れない。
その相手は私と死の話ばかりをしているのではなく、生きている中での寄り道のような話ばかりを共有している。最終目的がキルだとしたら、人の命をどうこうすることに関して、丁寧にまわりくどく仕事に取り組んでる、丁寧な死神もしくは殺人者だと思う。

それはストーリーとして面白いので、まあいいかな、どうやるの、何が起こされるのかな、と興味本位に思った。それが完遂された後、どうするのかな?とも思う。人死によって起きる様々なことはわりと大変である。それをどう処理していくのか、興味がある。なぜか私が死後の話も追うことができる想定で、映画や小説の筋を捉えているような感覚だ。

 

ここからさらに余計なことを考える。


今回の発問者ではない他の誰かが私を殺そうとしていたら

相手による。上記と同じように、意味や立場、その後のことをどうするのか興味が湧くのなら場合によっては「それで?」となるかも。

誠実な対話者だと認められる相手でなくては許さない。動機が安易・稚拙であれば許さない。なんでもかんでも奪われて良いというわけではない。
意味が薄かったり、私自身の存在に関係のない話(ただやってみたかった的な)であればなおさら許さない。無作為抽出には抵抗があるらしい。

私自身の在り方に関係があれば真意を問う。対話を試みる。なぜそうしたいのか知る権利はあるはず、だ?

しかし、そこまで他者に極端な選択肢を与えるような対応はしていないという一応の自負があるので、考え直すように説得を試みると思う。説得が成功すればよいが、失敗したら、そっと逃げる。納得感がなければ困る。


・逆に私が誰かをそうする場合
私がエージェントとして、そのような仕事を持っているなら極力淡々とやると思う。業務としてエモを持ち込むことは出来ない話だ。持ち込んだらしんどい。
やるとしたらおおごとなので、出来る限り満足のいく内容をサジェストしたいと思う。(そんなもの見つけられないだろうが…)

私事では絶対的にやらない。ハイリスクほぼノーリターンだ。実際にそうするしかないほど憎かったり・執着する相手はいない。そもそも私に人をそうする自由はないという基本理念がある。そんなことの責任とれません。

 

 

まとめ・机上の空論

会話の上ではどんなことでも成り立つ、の一段踏み込んだ話をしたことが新鮮で、あれこれ考えてしまった。

ある言葉がきっかけで、気持ちが遠いところまで行ってしまう感覚は面白い。あらゆる前提を置き去りにして、どこまでも考えが旅をしてゆき、想像し尽くして満足した(もしくは飽きた)時点でぱたっと終わる。

限りなく極端な内容だが、普段のあらゆる物事への考え方と矛盾があんまりないような気がするのも面白い。

関係のない誰かに、「もしも私が、」と問いかけてみることにも興味がある。相手とタイミングはものすごく選ぶが。

 

当該の人物からは、後日「この間は変な話をした気がします。忘れてください」と言われた。珍しく話の続きがあるパターンだった。