おぼえがき

なにをかいわんや

もしも僕が、と問われた話

少し前の日記からの考え事です。

 

空論するのが好き

だらだらと非現実的な仮想の話をする友人が何人かいる。徒歩圏内の近所の人や、移動に何時間もかけないと顔を見られないような遠くに住んでいる人やら、さまざまだ。

付き合いが10年以上にもなり、昔からそんなような話を長らく続けている人も、知り合って1、2年で、つい最近になって話の内容が変わってきた人もいる。

もしもこんなことが起きたなら・出来たなら、この事象についての考察、このエピソードはどうか。共感するのしないの、想像の話を延々とする。日常には直結しない思考ゲームをだらだらと繰り返す。

ときに酒を飲み飲みやってるので頭が回らず、話が二転三転、結論は出ない。大抵は時計を見て、「もうこんな時間か」となり、しゅんっと雑に収束して終わる。メールの場合、良い頃合いでレスポンスが無くなり、ああ寝たかな、と思って話は突然終わる。どちらの場合も、後日、話の続きは大抵しない。

 

 

もしもの話

そういったコミュニケーションが好きなのだが、ある友人と園子温の映画「ヒミズ」の話をしていたとき、「もしも僕が、あなたのことを殺そうとしていたらどうしますか」という仮想のクエスチョンを投げられた。

遠距離ではなく、顔を突き合わせての対話の中である。それまで和やかに与太話を繰り返していたが、その裏で私の命をどうこうしようという意図や権利があったら…という話。なんということを聞くのだ。言葉だけで捉えると、えらいことだ。

私は即座にうまく捉えた返答ができなかった。前提条件を確認(あなたは超越的ないわゆる死神なのか、殺人をしたいマンなのか、何人かグルなのか、単独なのか、意図は何か)するくらいで、話が行き来して、いつも通りぼやけてしまった。

当たり前だが、そんなこと今までで一度も言われたことないので、不覚にも多少面食らったのかも知れない。極めて変な話題だ。

そのよくわからない仮定の問いかけの言葉が強すぎて、翌朝にチャリで職場に向かう間にも思い出された。

 

 

ほなどうなんやということを考えた

・当該の発問者が私をそうするとしたら

彼は何も意味がなければ私を殺さないと思う。その行為をすることの意味は気になる。
どうやって実行していくのか気になるから、まんまと話に乗って、うっかり実行を許すかも知れない。
その相手は私と死の話ばかりをしているのではなく、生きている中での寄り道のような話ばかりを共有している。最終目的がキルだとしたら、人の命をどうこうすることに関して、丁寧にまわりくどく仕事に取り組んでる、丁寧な死神もしくは殺人者だと思う。

それはストーリーとして面白いので、まあいいかな、どうやるの、何が起こされるのかな、と興味本位に思った。それが完遂された後、どうするのかな?とも思う。人死によって起きる様々なことはわりと大変である。それをどう処理していくのか、興味がある。なぜか私が死後の話も追うことができる想定で、映画や小説の筋を捉えているような感覚だ。

 

ここからさらに余計なことを考える。


今回の発問者ではない他の誰かが私を殺そうとしていたら

相手による。上記と同じように、意味や立場、その後のことをどうするのか興味が湧くのなら場合によっては「それで?」となるかも。

誠実な対話者だと認められる相手でなくては許さない。動機が安易・稚拙であれば許さない。なんでもかんでも奪われて良いというわけではない。
意味が薄かったり、私自身の存在に関係のない話(ただやってみたかった的な)であればなおさら許さない。無作為抽出には抵抗があるらしい。

私自身の在り方に関係があれば真意を問う。対話を試みる。なぜそうしたいのか知る権利はあるはず、だ?

しかし、そこまで他者に極端な選択肢を与えるような対応はしていないという一応の自負があるので、考え直すように説得を試みると思う。説得が成功すればよいが、失敗したら、そっと逃げる。納得感がなければ困る。


・逆に私が誰かをそうする場合
私がエージェントとして、そのような仕事を持っているなら極力淡々とやると思う。業務としてエモを持ち込むことは出来ない話だ。持ち込んだらしんどい。
やるとしたらおおごとなので、出来る限り満足のいく内容をサジェストしたいと思う。(そんなもの見つけられないだろうが…)

私事では絶対的にやらない。ハイリスクほぼノーリターンだ。実際にそうするしかないほど憎かったり・執着する相手はいない。そもそも私に人をそうする自由はないという基本理念がある。そんなことの責任とれません。

 

 

まとめ・机上の空論

会話の上ではどんなことでも成り立つ、の一段踏み込んだ話をしたことが新鮮で、あれこれ考えてしまった。

ある言葉がきっかけで、気持ちが遠いところまで行ってしまう感覚は面白い。あらゆる前提を置き去りにして、どこまでも考えが旅をしてゆき、想像し尽くして満足した(もしくは飽きた)時点でぱたっと終わる。

限りなく極端な内容だが、普段のあらゆる物事への考え方と矛盾があんまりないような気がするのも面白い。

関係のない誰かに、「もしも私が、」と問いかけてみることにも興味がある。相手とタイミングはものすごく選ぶが。

 

当該の人物からは、後日「この間は変な話をした気がします。忘れてください」と言われた。珍しく話の続きがあるパターンだった。

おちこんだりもしたけれど、

おぼえがき。

 

手に負えない憂鬱

今年の頭あたりから個人的に何かしら気分の悪いものごとを抱えており、常にわりとダウーンとしていた。

仕事中や人と会っているときは普通にしているのだが、ひとりでふとした瞬間に気持ちの整理がつかず目頭が熱くなってきたり、実際めそめそ泣いたりしていた。しかしまあ人前ではこの感じ出てないから平気平気、といなしながらやりすごしていた。(ふさぎこんでる他人を見る限り、隠しきれず多分出てたと思う。イヤだ)

一方で、自分ではどんだけ感情の押さえが効かない状態か分かっていたので、悲しみスイッチが入る話題が出そうな場や人を避けて生活していた。

 

季節はぐんぐん過ぎていき秋。そんな淀んだ生活を続けて、気づけばかなりの時間が経ってしまっていた。外界の避け方があからさまになってきて、目上の人のからの連絡や外せない要件も容赦なく完無視するというアレな状態になっていた。今思うと本当にアレである。

そのような折、ある要件をぶち抜いてることを知っている友人から「大丈夫なの?大変なら手伝うよ」と言われた。もうこれは、なんというか逃げられない、というか、いつのまにか私は私が思っているほど平気じゃないな…と思い、「わりとなにもできなくなってるので話を聞いてくれ」と恥を捨てて泣きついた。

延々あーだこーだと話を聞いてもらい、要件の現状を整理し「私がアレな感じでサボらないように見張ってください」とお願いをし、サポートしてくれると言ってもらえた。優しい。持つべきものは信頼における友達だ。それからなんとかその件は軌道に乗せられている。

 

 

アッパーに転向する

私の気持ちが閉じていただけで、まともな気持ちで話ができる友人は他にもおり、週末にあちこちに出かけたり、工作をしているうちにじわじわと元気が出てきた。楽しいと思うことが増えてきた。

そのうち元気が出すぎて、平日仕事が終わってから夜な夜な出かけては日付が変わるまで遊びたくることが恒常化してきた。翌日の仕事においては休まず朝から元気よく働いている。

ここまで書いていて我ながら呆れるのだが、完全に躁転している。試しにスケジュール帳に遊びたくった日に印をつけてみたら、先週だけで4回やっていたことがわかり唖然としているところである。頭おかしいんか。体力を削って遊んでいる。仕事も依然忙しい。それでもやるのだ。なにを考えているのだ。

 

 

当たり前だが風邪を引いた

気温がガツンと下がったこともあるが、夜中までガッツリ遊んだ翌日の月曜日、思いっきり風邪を引いた。ついに身体が「ええ加減にしろ」とメッセージを送ってきた。そらそうだ。

えらいもんで風邪を引くと普通に生きてるだけでも疲れる。働くだけでとても疲れる、疲れているから早く寝たい、今日は家にいた方がいい、と判断する日が続き、今週はまともに養生する生活をしている。

そして風邪を引くと省エネになるので、普段気を使って我慢してやっていることや、一旦考えてからレスポンスしようと思うことに関して、ものすごく雑になっている。通常なら細かい事情や相手の立場が気になってすぐに言葉が出ない場面でもすぐに反応を返したり、はたまたこだわっていたことがどうでもよくなったり、いくらでもいじくれる仕事(好きなやつ)を大事に後回しにせずササッとやって終わらせたり、人格が変わったような物事の処理をしている。一言で言えば薄情になっている。

普段は体力使ってエモくやってたんだな…としみじみ思った。対外的にこれが正しいのか無駄なのかそうでないのかはわからんが、体調が人格形成に影響しているような気がすることは面白いと感じる。

 

 

それで今後どうすんねん

鬱々とした日々をとりあえず抜け、調子に乗ってはしゃぐ状態に歯止めがかかり、風邪も快方に向かってきている。

ではこれからどうするという話なのであるが、気持ちとしてはもう少し調子に乗って体力削って楽しさに甘える生活を続けたい。ユアマイ躁躁いつもすぐそばにある…というテンションはまだ燃え残っている。

しかし躁鬱の定型で考えると、私が無事本質的に健康になっていない限り、この波が終わった後にデカめのダウンがガーーーーンと来るという知識はあるので、心のどこかで不安だ。

正月あたりにダウンが来たら来年もほぼ変わんねーじゃねーかという具合なので、なんとか本当の健康を手に入れたい。本当の健康とは。サスティナブルな元気。欲しい。

おちこんだりもしたけれど、私はとりあえずげんき寄りです。

聴覚ベースで2019年を振り返る夏休み

雑記やでな。三ヶ月前の下書き。

 

YouTube premiumに入会した

最近、遅ればせながらYouTubeに大変お世話になり始めた。

今年の夏はしょーもない悶着の末、推しの現場予定が当落以前に事実上なくなったこともあり(やってらんないわよ)なんとなくアイドル熱があがりきらず、加えて私事でなにかと気がかりやタスクがあり、思い切り羽を伸ばすこともできず、休みが多いわりにインプットもアウトプットも少なかった。それで何か脳に情報を入れないとあああたまがおかしくなる、と思い始めてから(その時点で既にややおかしいとも言える)昔のTBSラジオを夜な夜なバチボコに連続再生していた。

バックグラウンド再生が出来ないのでラジオを聴いてる間は携帯を触れない、という話を友人にしたら「えっ…premium入れば?入りなよ。」と言われた。そらそうだ。それがいい。ラジオ的にはバックグラウンドできた方が最高にありがたい。

 

YouTube premiumのおまけでYouTube musicがついてきたのだが、それがとてもよく、現状ラジオよりもmusicにお世話になってる。個人的にはじめての音楽ストリーミングサービスへの加入である。

なんとなく今まで「買いたい曲は一曲単位でも買う。欲しい曲にはストレートに課金」「まあどこもジャニーズは対応してねーもんな(これがでかい)」という気があったので、決め打ちで「どうせあと最低20回は、三週間ほどは聴きたいだろう」という曲をiTunesでひとつひとつ買っていた。

こういう挙動だと自分が好きなものしかプレイリストに入らないので「ラフにアレコレ試聴して好きになる、好きなものが増える」という感覚から離れていた気がする。かつて田舎に住んでいて、勝手に入ってくる情報も少なく、週末に他に行くところがないということもあり足繁くCD屋に行って「なんか好きな感じのやつないかな〜」と暇つぶししていた頃のそれに近い気もする。

YouTube musicは、なんとなく気になってるアーティスト、知らない間にリリースされた好きなアーティストの作品、いつのまにかデータがどっかに行った昔好きだった思い出の曲、知らなかったけど恐らくハマりそうな曲が結構な精度でサジェストされるのが楽しい。「最近の音楽()に手を出しづらい()名前は知ってるしなんとなく気になるけどわざわざ。。()」という腰の重さを打破してパッパと連続で聴かせてくれ、「あ、これ好きやな」がライトにたくさん見つかる。これが良い。

 

本質的にはいつでもガッツリなやつが心からだいすきなんですけどね

そして自分が能動的なこだわりをもって好きな音楽が自分の精神性になんしか影響を与えてるとも感じた。

たま!戸川純ももクロ岡村ちゃん!などなどがだいすき!なのはいついかなる時も変わらないが、この辺をガツガツ摂取していくと、精神がどんどん研ぎ澄まされる。精神的にドップリいかれる音楽が好きなのだ。ブッ飛ぶ感覚が強すぎてこっちのエナジーも音楽に吸われている。体力勝負な面もある。元気なアーティストはとても良いのだ。

しかし、若者の頃は持っていた過剰なエネルギーと強い気持ち強い愛を24時間キープしている体力がない今は、浸透圧で元気のいい音楽にこちらのパワーを吸い尽くされることが多い。最近和食が旨いな…と感じることと感覚的に近い。めちゃだいすきで美味しいけど、間断なく摂取できなくなっていることが悲しい。体力。

Men’s JUNANと家庭教師と夏の前日とDNA狂想曲を連続で聴きたいよな…元気の良いときは聴いてるけど…聴くと同時に淡々と作業すんのは大変…昔の私どんだけ元気やったんや…と思う。この感覚の原因は個人的に音楽にかなりテンションを憑依されるタイプだというのもあるが。なおさらどんだけ元気だったんだよ。

 

音楽っていいな

なんか今後はけっこう既に好きな音楽中心で廻していって新しいものを敬遠しちゃうのかなあという感じで、音楽全般を貪欲に元気に聴けないつまらなさを感じていた中で、ホイホイとりあえず聴くという習慣が戻ってきた感覚はとても楽しい。

10年前とかにホイホイ聴いて、とても好きになったアーティストはなんとなくなぜか当時の現行より前時代のもの中心だったで同時代性という話ではないが、、知らなかったものを知って好きになるということはいつになっても良い。この度においても昔の知らなかった良い人のいい曲を知って喜んでる。

 

まとめ

音楽っていいな、という話。

11月初旬現在はハライチと伊集院光のラジオを聴きながら眠り、日中はHey!Say! JUMPのニューアルバムPARADEを鬼リピートしながら12月の現場(光くんの誕生日公演!やばい!)を楽しみにしてる状態なのでこれを書いた頃より聴覚が雑な通常営業になってる。

Zombie Step最高!

萩尾望都の「一瞬と永遠と」の話

アーカイブスです。お仕事で若い人向けに「読書・本について」の文章を書いたときにボツにした文章が出てきた。無編集なのでですますです。

 

 

好きな人が書いた文章を読む

一番最近買った本について話をします。先日「一瞬と永遠と」という本を買いました。漫画家の萩尾望都による短編エッセイ集です。萩尾望都は私の一番好きな漫画家で、1970年代に発表された「トーマの心臓」「ポーの一族」を皮切りに、2016年の現在でも、読み終えると「ううっ…」と感嘆してしまうような、心にぐっとくる作品を発表しています。「メッシュ」と「トーマの心臓」が特に好きで、何度も読み返しています。

 

エッセイである本書は、氏の漫画作品とは違った読感が得られます。漫画においては、何層ものフィルターにかけ、精査された表現によって構成された作品世界の中に没入することができますが、エッセイでは濾過されきっていない部分があるというか、雑音や余白を感じられます。文章の中に生身の人間らしさがあるのです。しかし、やはり、表現媒体が変わっても、語調や言葉選び、ものの捉え方、考え方、リズムや構成から、確かに本人だと感じるエッセンスがにじみ出ています。


また、本書の中には、漫画作品と結びつけて楽しめるエピソードが散見されます。家族や周りの人との関係、好きな本の話、旅先での出来事、等々…。この体験があの作品に繋がったのだろうか、あの場面の背景にはこんな思いががあったのだろうかと想像しながら読むと、わくわくします。

いろんな楽しみ方ができる本なので、萩尾望都作品が好きな方は読んでみてください。

そうでなければ、皆さんが素敵だと思っているあらゆるジャンルの作家、イラストレーターやミュージシャンが、なんらかの文章を発表しているのなら、それをぜひ読んでみてください。文章から本人に思いを馳せるという点で言えば、インタビューや対談より、エッセイや小説の方が、ひとりで書いているぶん、濃度が高くて面白いです。
好きな人が書いた文章を読むということは、その人の人間的な部分を垣間見ることができ、楽しい発見のある読書体験になります。きっと、創作活動のヒントにもなります。

 

 

まとめ

読書っていいね

迫りくるオバケの気配

オカルト雑記。(主観のみ)

 

夢を見た

夜の鴨川、三条大橋か丸太町の橋のたもと辺りを小さなかわいい白いくまのぬいぐるみが泳いでいる。

俯瞰の視点で、暗い夜の鴨川でぬいぐるみが頑張って泳いでいるのを見ている。このくまが川を渡るのを私は応援しなくてはいけない。頭の中で櫓囃子のような掛け声のような歌を繰り返し歌う。歌を唄うと、その間くまは泳ぐことができるらしい。謎のシステムだ。

もうそろそろ渡りきれるかな、体が小さいからまだ渡れないかな、もう少し多めに歌っておこうか、と思いながら「えいこらさ、よいやっさ」といったような、音程の無い唄をしばらく歌う。

突然、視点が地面を間近で見つめている構図に切り替わる。川から上がったようだ。暗いアスファルトの地面を四つ這いで走り出す。視点は進行方向を向かず、黒い地面が流れていく。

それなりのスピードで土手を駆け登り、路地を抜けて御池通に出て、西に向かう…あ!あかんこれ考えるのやめないと家まで来る!と、無理矢理イメージを止め、布団から跳ね起きた。時刻は夜中の3時だ。私はいつから起きていたのか。頭の中では櫓囃子が止まらない。

 

オバケ的な夢を見て跳ね起きたときの大半は、自室の感じが恐ろしくないので「頭の中のことだ」と確認をし、ひとしきり安心して寝るのだが、今回は起きた時の感じが悪い。さっきまでの感覚とあまり境目がない感じがする。

頭の中には、まだ暗いアスファルトのイメージと、櫓囃子の音声が残る。このまま帰路をイメージしてはいけない、「えいこらさっさ」を止めないと、と思って家中の電気を点け、水を飲んで一服し、ラジオを再生する。悪夢を見た割にひどく眠い。

とにかく頭を一度リセットしないとこのままイメージが続くようで気がしたので、ラジオの話に集中した。なかなか櫓囃子が消えない。眠る前にこのリズムから意識を切り離したい。

 

家に来ないで(再)

過去にも、よく分からないものが自宅に近づいてくる夢を見ていた時期があった。大学生のころ、何夜かかけて視点がくるくると螺旋状に回りながらどんどん家に近づいてきて、ついにマンションの前まで来た事があった。映像とは関係なく、シャン、シャンと鐘のような音が鳴っていた。

ついぞ家の前までなんか来てしまった日、寝るのが恐ろしく、昼間のうちに「なにか対策はないのか」と思って色々と検索した結果「部屋の真ん中に寝床を置くのはダメ」という情報を得た。その数日前に、ホテルライクな贅沢感欲しい!(アホ)と思ってベッドを部屋のやや中央に配置したばかりであった。ベッドを部屋の隅に戻して寝たら、それ以降家の周りをくるくる回られる夢は見なくなった。ホテルライクなワンルームに憧れた末に、なんかよくわからんものがくるくる回りながら家に接近してくる恐怖感を味わうとは、ばかげた話である。

 

幽霊の視点で

今回のくまの川泳ぎに関して気味が悪いと思った観点として、視点の問題がある。

いくつかのネットで見つかるオカルト話の中で、これはとっても嫌な感じなのでやるまいと思っている話の中で視点の認識に関わるものがある。なんというか気持ちの悪い感覚があるので、記述しながらイメージしないように気をつける。

 

家にオバケがいるか確かめる方法

・家の玄関から入って、全ての部屋をひととおり歩いて玄関に戻るイメージをする。その中で誰かその家にいるはずではない人を見たら、それは家にいる幽霊です。というもの。アトリエメンバーがアトリエで試したところ(なぜ試す)台所に中年男性がいるらしい。やめてくれ。

・昨日の夕食はなんだったかを思い出してみる。思い出す時に自分の視点(食事を手元から見ている映像)ならセーフ、食事をしている自分を他者目線からイメージしたら、それは家にいるやつの視点なのでアウト、というもの。

 

自分の過去の視点と実際には結びつかないないはずのイメージ、本来知り得ないはずの他者の視点が混ざり合っていたりしたら、感覚的に良くないというパターンがある。さらには、聞いた覚えのない音声が差し込まれたらなお実体験との結びつきは不確かなものになる。

冒頭のくまに関しては、私は櫓囃子などは身の回りで聞くこともなく、突然思考に放り込まれたのが気持ち悪かった。当たり前ではあるが地面を這う視点も持たないので、いきなり他者視点になったことに違和感があった。その上で私がコントロールして、自分に近づいていく感覚は儀式的で良くねえ〜と思う。くま自体は明らかに私が最近ハマってるインターネットコンテンツのくまの造形から由来しているのだが、夢の内容や、オカルトに結びつく要素はない。くまを利用してとりあえず油断させられた感がある。応援すべきでは無いものを、ハッキングされて応援させられてた感じにぞっとする。

感覚にすぎないのだが、ひとつひとつがなんだか丁寧なのが嫌だ。

 

オチはない

朝目が覚めると、櫓囃子の内容は全く思い出せなくなっていた。部屋の空気も普通だった。これはセーフ感。さては私とは縁もゆかりも無い浮遊霊だな。あー怖かった。家掃除しよ。オチはない。

 

 

実際なにもない日

非推奨日記です。

 

髪を切り、味噌を舐める

美容院の予約をしていた。髪を切るのは7月以来で、本格的な夏になる前からそのまま放っていたことになる。襟足にかけてもさもさとしており、手入れされていない庭のようになっていた。

家を出ると、ときたま強い風が吹き傘を歪めた。傘の根元を持ち、心持ちゆっくりと歩いた。「不要不急の外出」という言葉が頭をかすめる。不急ではないかもしれないが、不要ではないです…と思いながら駅に向かう。

 

美容院で伸び放題だった襟足の毛を短くし、こざっぱりとした。1キロでも太ったら死ぬ系のリップラインまでのボブになった。色が抜けていた全頭に黒染めをして無彩色になった。顔色が変わって見える。インナーブリーチ部分にはピンクベージュを入れた。チャラくてよい。

 

帰りにDEEN&DELUCAで惣菜と白味噌などを買った。味噌職人さんを招いてテイスティングの催事をしていたが、店には私と何人かの外国人観光客しかいなかった。催事は今日一日だけの開催らしい。味噌を色々な素材と組み合わせたものを7〜8種類試食した。どれも非常に上品な味がして美味しかった。

職人さんが話すことは、味噌自体の説明ではなく、この素材に合わせると美味しい・このようにも使える、という内容だった。美味しく食べてもらうために、あれこれ工夫して用意したであろうことが窺えた。すべてに「美味しいです」と小学生並みの感想を言うと職人さんは人の良さそうな笑顔でニコっとしていた。長文で手紙を書いて味噌と笑顔を褒めまくりたい気持ちになった。味噌うまい。

帰り道、雨は少し強くなっていたが、風は弱まっていた。出かける前に風呂に水を貯めておいたが、そのまま流すだけになりそうだ。暗い部屋にたっぷりと水が貯まってるのは、少し怖い。オバケが出そう。

 

おでかけ観の個人的変化

わざわざ外に出るべきではない日に出ることはよくない。単純に危険だし、親に心配をかける。

しかし、私にとって完全に自分を甘やかすために外出したのは何ヶ月ぶりだろう。なんとなくずっと気持ちが沈んでいて、こういうことをする気が起きなかった。

誰かと一緒に楽しむために、ストレスをかき消すために、贅沢をすることはあったが、(それはそれで楽しいのでよい)ちょっと気持ちが浮ついてひとりで良い気分になりたいだけのためにわざわざ外出したのは、なんだか久しぶりのような気がする。ましてや雨が降ったり、場合によっては曇りでも外に出るのが億劫だったが、こんな悪天候の日にわざわざ外に出るなんて気の持ちようがマシになっているらしい。大きな出来事はなかったが、気分の良さが残った。

 

まとめ

台風の日は家から出てはいけません。

2019年秋の化粧品について

もう秋だし良いよな

 

プチプラとデパコスの狭間

比較的若い時分から、デパコス信者として生活していたが、近年は即物的良さがある韓国コスメにハマったり、キャンメイクを激推ししている松井リキさんの動画にハマっていたおかげでプチプラコスメの再評価をしていた。技術の進歩により安価良品が作られるようになっているとも思う。

その反面、普通に社会人をやっているのでコストとの対決が学生のときよりもキツくないことと、適当に年をとってきたことで高価格帯のブランドのものが顔面にある程度馴染むようになってきたことで、買うブランドの選択の幅が広がりデパコスにおいても新しい系列のものを楽しめるようになった。

まだまだ若く、トラブルシューティングに腐心しなくても良い20代前半でゴージャスな路線に手を出すと、この先年取ったときに新しい世界に踏み込む楽しさが無くてつまらんだろ…と思い、現在はちょっと手を出しにくいジルスチュアートやポール&ジョーのようなメチャファンシーカワイイ!ディレクションの系列を満喫しておいて良かった。若い頃のわたくしえらい。ジャニーさんも言ってたけど子供は大人になれるけど、大人は子供に決して帰れない。

そんなような経緯を経て、今のラインの中にはさまざまな価格帯の化粧品が混在している。

今回は事件的新製品が何かあったというより、わりと全体の構成が変わってきたかなーという気がしてるので、秋の備忘録的にプロセスを追うスタイルで記述していこうと思う。

 

スキンケア

朝は水洗顔。皮脂を取りすぎない方面の手順を踏むスタイルは継続している。夜はメデルのクリームクレンジングを使っているが、洗浄力がやや弱いのでラロッシュポゼの方がいい気がする。しかし今のところ落としきれてない感じのトラブルはないので、そこまで洗い不足ではない気がする。京都もぐっと冷え込んできたので、乾燥対策は段階的にもう少し強化すべきな気がする。ほんと面倒くさい地域だ。

イブサンローランのトップシークレットローションなる泡で出てくる化粧水とグーダルのビタCクリームはこの夏大変よかった。「朝から美容液までフルラインでやるとトゥーマッチかも」というサンローランのギャル店員のコメントを取り入れているが、さっぱり仕上がりなのでさらに湿度が下がってきたら考え直す必要がありそうだ。イプサのメタボライダーは無くなった。そろそろ買いに行くかなーと思っているが、今のところ肌トラブルはないので腰が重い。サボった分ひどい数値が出たら怖い。

 

ベースメイク

ベースは一時期ハマっていたときに買った安定・名品数本がなかなかなくならないので日によって変えている。一番良いのはサンローランのラディアントタッチブラープライマーとトップシークレットCCクリームローズを混ぜるというくそ贅沢コンビだが、これ1年くらいなくなってないのでコスパ的にはそんなに無茶じゃないよ。と、言わせて。

その他はラロッシュポゼのトーンアップ日焼け止め乳液・化粧下地と、エチュードハウスのトーンアッププライマーのラベンダーがベンチにいて、顔色や上に乗せたいアイテムによって使い分ける。

ファンデはサンローランのアンクルドポーオールアワーズ。前記事ではイプサからのRMKで優しい女を連続で選んでしまったやで…と反省していたが、今回は八月あたりに強い女になるやつください!というモチベーションでしっかりカバーできるやつを選んだ。スポンジもセットで買う。個人的な理解としては

ダブルウェア>>>アンクルドポー>>>イプサ>RMK

くらいのナチュラル感である。ポイントアイテムでゴリっとしたやつブームがきているので、ある程度キャンバスは整えた方がバランスがいい。今は比較的アンナチュラルな方面に寄せたい。

崩れ方については…いや、崩れないんですよね。崩れないんだよなあ。それがすごい。崩れないんだよね…いや…すごいんだよなあ。チャリ通をしてるので朝から汗かくし、面倒ゆえに化粧直しもリップ以外しないんだけど、夜まで「なんやねんこの顔」とならない。さすがにカバーは多少消えていくんだけど「ウワ!浮いてるやばい」と思わない。これはすごい。えらい。ポイントアイテムの持ちもよい。

パウダーは前回と同じコスデコのやつ。塗りすぎると乾燥するので、ブラシで鼻周りと額にだけはたく。大汗をかく季節よりさらに少なめにした方が良さそう。

 

シェーディング・チーク

NARSのやつがまだあるので使ってる。そろそろなくなりそう。シェーディングはなりたい人の陰影を真似るスタイルは継続しているが、今までのノーズシャドウ重視で「八乙女光くんの鼻になりて〜〜」と思って目と目の間を狭めるスタイルはあまりやっていない。(好きだが)

最近はヴァイオレット・チャチキちゃんを参考に、口角から頬の上の方にまっすぐシェーディングを入れて、そのやや上にチークを重ね、そのまた上からCゾーンにかけて少し重なるようにハイライトを入れるやつがブーム。

チークは何個かある中で3ceキツネのピンクのパレットに入ってるやつがピーチピンクで肌馴染みがよく、再評価している。シャネルのジュコントラストの69も、少し甘いピンクで秋に良い具合になってきた。バランス的にブラウン系はシェーディングを強調しすぎる、ピンクど真ん中のやつは甘すぎる。今後の予定としては、未開拓なパープル系のチークを買いたいと思っている。チークは秋冬の方が楽しい傾向にあるので楽しみ。

 

ハイライト

セザンヌのパールグロウハイライト01。02よりよい。私の顔ケント紙なのかーっていうフラッシュな白さを出してくれる。良い。付属のブラシでCゾーンと鼻筋にのせる。のせすぎると顔が光沢紙になって変になる。付属のブラシを少し潰してエッジが出ないようにしてのせたほうがいいっぽい。

 

アイブロウ・アイシャドウ

メイクアップレボリューションのアイラブチョコレート チョコレートオレンジをゲットした。眉毛はこれの明度が低いものをアングルブラシで描く。最近は自眉を伸ばしてるので、あまり形を変えずにパウダーで色味だけ調節する。結構赤いなあ…という茶色を使うとエッジーな感じになって楽しい。

アイシャドウは資生堂のブラシMくらいの大きめのもので単色グラデをする。アイラブチョコレートは発色がめちゃくそ良いので小さいブラシを使うとpartyすぎて仕事に行けなくなる。粉質が柔らかいのでほんまにかる〜〜く取らないと事故になる。事故になったら筆タイプのコンシーラーでグラデ幅を狭める。目尻から少し上がるようにしてつり目っぽい角度でグラデを作ると汚い感じにならなくて良い。涙袋は最近はあんまりガッツリにしたくないので、目玉の中央に薄づきのラメをのせる際に残った粉を軽くのせる。

最近トムフォードのアフリカンバイオレットも適当に飼い慣らせてきて、ブラウン重視でポイントにオレンジや紫をいれるのも良い。夏場よりブラウンを多めにのせたい。

オレンジを囲み目でいれた上にダズショップのFALL IN SILENCEという空の色のようなセンチメンタルな青を黒目の上下にポイントで濃くのせるのもエモい感じで美しいのでたまにやる。しかしこれは発色があんま良くないのでクリームベースを敷かないとすぐいなくなる。

このへんの発色楽しいやつは顔が浮腫んでいない日以外はやらない。毎日浮腫まないで欲しいですね。

 

リップ

時系列が崩れるが、ベースをした時点で資生堂のモアリップを塗っている。
かつてから大野くんの使ってるリップという認識だったが、最近の個人的ブームである伊集院光の過去のラジオで「唇の荒れに苦しんでたけどモアリップ塗ったら荒れる前よりウルウルになってここにいるやつ全員おれの唇奪いたいだろ」と言ってるの聞いたのがきっかけで買ったのだが、実際とてもいい。推せる。

カラーアイテムとしてはサンローランのタトワールクチュール30がパープル寄りの深い赤で豊かな色味でよい。マットリップ史上、いちばん乾燥しないアンド濃い発色なのに浮かないし、時間経過してもよい。ブラシが蛍光ペン(太)の先のようなカッティングで塗りやすい。というか濃い色なので塗り損ねたら明らかにダメなので失敗したら修正する。これは秋のヒットで、買ってよかった〜となるやつ。

 

番外編というか最近のハック

ドラァグにハマっているので、形から入るオタクとしてドラァグメイクを休日にやってみたりしている。難しい。やべー顔になる。しかし楽しい。

ドラァグレースのどれかのシーズン最終回で、ファンからの「どうやってメイクをはじめましたか」的な質問で「私も最初は夜に部屋でひとりで試して、ある日外に出てみた」という質疑がすごくいいなあと勇気付けられて、休日に試している。顔を変えるのって面白い。

やってみてわかるのは、ドラァグメイクめっちゃ難しいやんということである。しっかり生えてる眉毛を消したり、美しく見えるようにダブルラインを入れるのはすごく難しい。コントゥアリングを濃くのせて、顔の形を骨格を活かしながら引き締めつつ、泥人形っぽくならないようにキレイに仕上げるためには、自分の顔の造作と、使う化粧品への深い理解が必要だ。「いつも美しいなー」と思わせてくれる人ってめっちゃくちゃすごい。

美大生時代から「ギャルは自分の顔に毎日美人画を描いてるようなもんやから日本画の適性があるはず」(美の内容は個人の自由とする)と主張しているが、ギャルメイクとドラァグメイクには親和性があるんだな…と思った。顔に顔を描く文化である。

 

まとめ

季節と気持ちに合わせてアイテム変えるのはめんどくさいけど、手のかかる動植物育てるのと同じ感覚で楽しんでやりましょう。趣味だから。