おぼえがき

なにをかいわんや

迫りくるオバケの気配

オカルト雑記。(主観のみ)

 

夢を見た

夜の鴨川、三条大橋か丸太町の橋のたもと辺りを小さなかわいい白いくまのぬいぐるみが泳いでいる。

俯瞰の視点で、暗い夜の鴨川でぬいぐるみが頑張って泳いでいるのを見ている。このくまが川を渡るのを私は応援しなくてはいけない。頭の中で櫓囃子のような掛け声のような歌を繰り返し歌う。歌を唄うと、その間くまは泳ぐことができるらしい。謎のシステムだ。

もうそろそろ渡りきれるかな、体が小さいからまだ渡れないかな、もう少し多めに歌っておこうか、と思いながら「えいこらさ、よいやっさ」といったような、音程の無い唄をしばらく歌う。

突然、視点が地面を間近で見つめている構図に切り替わる。川から上がったようだ。暗いアスファルトの地面を四つ這いで走り出す。視点は進行方向を向かず、黒い地面が流れていく。

それなりのスピードで土手を駆け登り、路地を抜けて御池通に出て、西に向かう…あ!あかんこれ考えるのやめないと家まで来る!と、無理矢理イメージを止め、布団から跳ね起きた。時刻は夜中の3時だ。私はいつから起きていたのか。頭の中では櫓囃子が止まらない。

 

オバケ的な夢を見て跳ね起きたときの大半は、自室の感じが恐ろしくないので「頭の中のことだ」と確認をし、ひとしきり安心して寝るのだが、今回は起きた時の感じが悪い。さっきまでの感覚とあまり境目がない感じがする。

頭の中には、まだ暗いアスファルトのイメージと、櫓囃子の音声が残る。このまま帰路をイメージしてはいけない、「えいこらさっさ」を止めないと、と思って家中の電気を点け、水を飲んで一服し、ラジオを再生する。悪夢を見た割にひどく眠い。

とにかく頭を一度リセットしないとこのままイメージが続くようで気がしたので、ラジオの話に集中した。なかなか櫓囃子が消えない。眠る前にこのリズムから意識を切り離したい。

 

家に来ないで(再)

過去にも、よく分からないものが自宅に近づいてくる夢を見ていた時期があった。大学生のころ、何夜かかけて視点がくるくると螺旋状に回りながらどんどん家に近づいてきて、ついにマンションの前まで来た事があった。映像とは関係なく、シャン、シャンと鐘のような音が鳴っていた。

ついぞ家の前までなんか来てしまった日、寝るのが恐ろしく、昼間のうちに「なにか対策はないのか」と思って色々と検索した結果「部屋の真ん中に寝床を置くのはダメ」という情報を得た。その数日前に、ホテルライクな贅沢感欲しい!(アホ)と思ってベッドを部屋のやや中央に配置したばかりであった。ベッドを部屋の隅に戻して寝たら、それ以降家の周りをくるくる回られる夢は見なくなった。ホテルライクなワンルームに憧れた末に、なんかよくわからんものがくるくる回りながら家に接近してくる恐怖感を味わうとは、ばかげた話である。

 

幽霊の視点で

今回のくまの川泳ぎに関して気味が悪いと思った観点として、視点の問題がある。

いくつかのネットで見つかるオカルト話の中で、これはとっても嫌な感じなのでやるまいと思っている話の中で視点の認識に関わるものがある。なんというか気持ちの悪い感覚があるので、記述しながらイメージしないように気をつける。

 

家にオバケがいるか確かめる方法

・家の玄関から入って、全ての部屋をひととおり歩いて玄関に戻るイメージをする。その中で誰かその家にいるはずではない人を見たら、それは家にいる幽霊です。というもの。アトリエメンバーがアトリエで試したところ(なぜ試す)台所に中年男性がいるらしい。やめてくれ。

・昨日の夕食はなんだったかを思い出してみる。思い出す時に自分の視点(食事を手元から見ている映像)ならセーフ、食事をしている自分を他者目線からイメージしたら、それは家にいるやつの視点なのでアウト、というもの。

 

自分の過去の視点と実際には結びつかないないはずのイメージ、本来知り得ないはずの他者の視点が混ざり合っていたりしたら、感覚的に良くないというパターンがある。さらには、聞いた覚えのない音声が差し込まれたらなお実体験との結びつきは不確かなものになる。

冒頭のくまに関しては、私は櫓囃子などは身の回りで聞くこともなく、突然思考に放り込まれたのが気持ち悪かった。当たり前ではあるが地面を這う視点も持たないので、いきなり他者視点になったことに違和感があった。その上で私がコントロールして、自分に近づいていく感覚は儀式的で良くねえ〜と思う。くま自体は明らかに私が最近ハマってるインターネットコンテンツのくまの造形から由来しているのだが、夢の内容や、オカルトに結びつく要素はない。くまを利用してとりあえず油断させられた感がある。応援すべきでは無いものを、ハッキングされて応援させられてた感じにぞっとする。

感覚にすぎないのだが、ひとつひとつがなんだか丁寧なのが嫌だ。

 

オチはない

朝目が覚めると、櫓囃子の内容は全く思い出せなくなっていた。部屋の空気も普通だった。これはセーフ感。さては私とは縁もゆかりも無い浮遊霊だな。あー怖かった。家掃除しよ。オチはない。

 

 

実際なにもない日

非推奨日記です。

 

髪を切り、味噌を舐める

美容院の予約をしていた。髪を切るのは7月以来で、本格的な夏になる前からそのまま放っていたことになる。襟足にかけてもさもさとしており、手入れされていない庭のようになっていた。

家を出ると、ときたま強い風が吹き傘を歪めた。傘の根元を持ち、心持ちゆっくりと歩いた。「不要不急の外出」という言葉が頭をかすめる。不急ではないかもしれないが、不要ではないです…と思いながら駅に向かう。

 

美容院で伸び放題だった襟足の毛を短くし、こざっぱりとした。1キロでも太ったら死ぬ系のリップラインまでのボブになった。色が抜けていた全頭に黒染めをして無彩色になった。顔色が変わって見える。インナーブリーチ部分にはピンクベージュを入れた。チャラくてよい。

 

帰りにDEEN&DELUCAで惣菜と白味噌などを買った。味噌職人さんを招いてテイスティングの催事をしていたが、店には私と何人かの外国人観光客しかいなかった。催事は今日一日だけの開催らしい。味噌を色々な素材と組み合わせたものを7〜8種類試食した。どれも非常に上品な味がして美味しかった。

職人さんが話すことは、味噌自体の説明ではなく、この素材に合わせると美味しい・このようにも使える、という内容だった。美味しく食べてもらうために、あれこれ工夫して用意したであろうことが窺えた。すべてに「美味しいです」と小学生並みの感想を言うと職人さんは人の良さそうな笑顔でニコっとしていた。長文で手紙を書いて味噌と笑顔を褒めまくりたい気持ちになった。味噌うまい。

帰り道、雨は少し強くなっていたが、風は弱まっていた。出かける前に風呂に水を貯めておいたが、そのまま流すだけになりそうだ。暗い部屋にたっぷりと水が貯まってるのは、少し怖い。オバケが出そう。

 

おでかけ観の個人的変化

わざわざ外に出るべきではない日に出ることはよくない。単純に危険だし、親に心配をかける。

しかし、私にとって完全に自分を甘やかすために外出したのは何ヶ月ぶりだろう。なんとなくずっと気持ちが沈んでいて、こういうことをする気が起きなかった。

誰かと一緒に楽しむために、ストレスをかき消すために、贅沢をすることはあったが、(それはそれで楽しいのでよい)ちょっと気持ちが浮ついてひとりで良い気分になりたいだけのためにわざわざ外出したのは、なんだか久しぶりのような気がする。ましてや雨が降ったり、場合によっては曇りでも外に出るのが億劫だったが、こんな悪天候の日にわざわざ外に出るなんて気の持ちようがマシになっているらしい。大きな出来事はなかったが、気分の良さが残った。

 

まとめ

台風の日は家から出てはいけません。

2019年秋の化粧品について

もう秋だし良いよな

 

プチプラとデパコスの狭間

比較的若い時分から、デパコス信者として生活していたが、近年は即物的良さがある韓国コスメにハマったり、キャンメイクを激推ししている松井リキさんの動画にハマっていたおかげでプチプラコスメの再評価をしていた。技術の進歩により安価良品が作られるようになっているとも思う。

その反面、普通に社会人をやっているのでコストとの対決が学生のときよりもキツくないことと、適当に年をとってきたことで高価格帯のブランドのものが顔面にある程度馴染むようになってきたことで、買うブランドの選択の幅が広がりデパコスにおいても新しい系列のものを楽しめるようになった。

まだまだ若く、トラブルシューティングに腐心しなくても良い20代前半でゴージャスな路線に手を出すと、この先年取ったときに新しい世界に踏み込む楽しさが無くてつまらんだろ…と思い、現在はちょっと手を出しにくいジルスチュアートやポール&ジョーのようなメチャファンシーカワイイ!ディレクションの系列を満喫しておいて良かった。若い頃のわたくしえらい。ジャニーさんも言ってたけど子供は大人になれるけど、大人は子供に決して帰れない。

そんなような経緯を経て、今のラインの中にはさまざまな価格帯の化粧品が混在している。

今回は事件的新製品が何かあったというより、わりと全体の構成が変わってきたかなーという気がしてるので、秋の備忘録的にプロセスを追うスタイルで記述していこうと思う。

 

スキンケア

朝は水洗顔。皮脂を取りすぎない方面の手順を踏むスタイルは継続している。夜はメデルのクリームクレンジングを使っているが、洗浄力がやや弱いのでラロッシュポゼの方がいい気がする。しかし今のところ落としきれてない感じのトラブルはないので、そこまで洗い不足ではない気がする。京都もぐっと冷え込んできたので、乾燥対策は段階的にもう少し強化すべきな気がする。ほんと面倒くさい地域だ。

イブサンローランのトップシークレットローションなる泡で出てくる化粧水とグーダルのビタCクリームはこの夏大変よかった。「朝から美容液までフルラインでやるとトゥーマッチかも」というサンローランのギャル店員のコメントを取り入れているが、さっぱり仕上がりなのでさらに湿度が下がってきたら考え直す必要がありそうだ。イプサのメタボライダーは無くなった。そろそろ買いに行くかなーと思っているが、今のところ肌トラブルはないので腰が重い。サボった分ひどい数値が出たら怖い。

 

ベースメイク

ベースは一時期ハマっていたときに買った安定・名品数本がなかなかなくならないので日によって変えている。一番良いのはサンローランのラディアントタッチブラープライマーとトップシークレットCCクリームローズを混ぜるというくそ贅沢コンビだが、これ1年くらいなくなってないのでコスパ的にはそんなに無茶じゃないよ。と、言わせて。

その他はラロッシュポゼのトーンアップ日焼け止め乳液・化粧下地と、エチュードハウスのトーンアッププライマーのラベンダーがベンチにいて、顔色や上に乗せたいアイテムによって使い分ける。

ファンデはサンローランのアンクルドポーオールアワーズ。前記事ではイプサからのRMKで優しい女を連続で選んでしまったやで…と反省していたが、今回は八月あたりに強い女になるやつください!というモチベーションでしっかりカバーできるやつを選んだ。スポンジもセットで買う。個人的な理解としては

ダブルウェア>>>アンクルドポー>>>イプサ>RMK

くらいのナチュラル感である。ポイントアイテムでゴリっとしたやつブームがきているので、ある程度キャンバスは整えた方がバランスがいい。今は比較的アンナチュラルな方面に寄せたい。

崩れ方については…いや、崩れないんですよね。崩れないんだよなあ。それがすごい。崩れないんだよね…いや…すごいんだよなあ。チャリ通をしてるので朝から汗かくし、面倒ゆえに化粧直しもリップ以外しないんだけど、夜まで「なんやねんこの顔」とならない。さすがにカバーは多少消えていくんだけど「ウワ!浮いてるやばい」と思わない。これはすごい。えらい。ポイントアイテムの持ちもよい。

パウダーは前回と同じコスデコのやつ。塗りすぎると乾燥するので、ブラシで鼻周りと額にだけはたく。大汗をかく季節よりさらに少なめにした方が良さそう。

 

シェーディング・チーク

NARSのやつがまだあるので使ってる。そろそろなくなりそう。シェーディングはなりたい人の陰影を真似るスタイルは継続しているが、今までのノーズシャドウ重視で「八乙女光くんの鼻になりて〜〜」と思って目と目の間を狭めるスタイルはあまりやっていない。(好きだが)

最近はヴァイオレット・チャチキちゃんを参考に、口角から頬の上の方にまっすぐシェーディングを入れて、そのやや上にチークを重ね、そのまた上からCゾーンにかけて少し重なるようにハイライトを入れるやつがブーム。

チークは何個かある中で3ceキツネのピンクのパレットに入ってるやつがピーチピンクで肌馴染みがよく、再評価している。シャネルのジュコントラストの69も、少し甘いピンクで秋に良い具合になってきた。バランス的にブラウン系はシェーディングを強調しすぎる、ピンクど真ん中のやつは甘すぎる。今後の予定としては、未開拓なパープル系のチークを買いたいと思っている。チークは秋冬の方が楽しい傾向にあるので楽しみ。

 

ハイライト

セザンヌのパールグロウハイライト01。02よりよい。私の顔ケント紙なのかーっていうフラッシュな白さを出してくれる。良い。付属のブラシでCゾーンと鼻筋にのせる。のせすぎると顔が光沢紙になって変になる。付属のブラシを少し潰してエッジが出ないようにしてのせたほうがいいっぽい。

 

アイブロウ・アイシャドウ

メイクアップレボリューションのアイラブチョコレート チョコレートオレンジをゲットした。眉毛はこれの明度が低いものをアングルブラシで描く。最近は自眉を伸ばしてるので、あまり形を変えずにパウダーで色味だけ調節する。結構赤いなあ…という茶色を使うとエッジーな感じになって楽しい。

アイシャドウは資生堂のブラシMくらいの大きめのもので単色グラデをする。アイラブチョコレートは発色がめちゃくそ良いので小さいブラシを使うとpartyすぎて仕事に行けなくなる。粉質が柔らかいのでほんまにかる〜〜く取らないと事故になる。事故になったら筆タイプのコンシーラーでグラデ幅を狭める。目尻から少し上がるようにしてつり目っぽい角度でグラデを作ると汚い感じにならなくて良い。涙袋は最近はあんまりガッツリにしたくないので、目玉の中央に薄づきのラメをのせる際に残った粉を軽くのせる。

最近トムフォードのアフリカンバイオレットも適当に飼い慣らせてきて、ブラウン重視でポイントにオレンジや紫をいれるのも良い。夏場よりブラウンを多めにのせたい。

オレンジを囲み目でいれた上にダズショップのFALL IN SILENCEという空の色のようなセンチメンタルな青を黒目の上下にポイントで濃くのせるのもエモい感じで美しいのでたまにやる。しかしこれは発色があんま良くないのでクリームベースを敷かないとすぐいなくなる。

このへんの発色楽しいやつは顔が浮腫んでいない日以外はやらない。毎日浮腫まないで欲しいですね。

 

リップ

時系列が崩れるが、ベースをした時点で資生堂のモアリップを塗っている。
かつてから大野くんの使ってるリップという認識だったが、最近の個人的ブームである伊集院光の過去のラジオで「唇の荒れに苦しんでたけどモアリップ塗ったら荒れる前よりウルウルになってここにいるやつ全員おれの唇奪いたいだろ」と言ってるの聞いたのがきっかけで買ったのだが、実際とてもいい。推せる。

カラーアイテムとしてはサンローランのタトワールクチュール30がパープル寄りの深い赤で豊かな色味でよい。マットリップ史上、いちばん乾燥しないアンド濃い発色なのに浮かないし、時間経過してもよい。ブラシが蛍光ペン(太)の先のようなカッティングで塗りやすい。というか濃い色なので塗り損ねたら明らかにダメなので失敗したら修正する。これは秋のヒットで、買ってよかった〜となるやつ。

 

番外編というか最近のハック

ドラァグにハマっているので、形から入るオタクとしてドラァグメイクを休日にやってみたりしている。難しい。やべー顔になる。しかし楽しい。

ドラァグレースのどれかのシーズン最終回で、ファンからの「どうやってメイクをはじめましたか」的な質問で「私も最初は夜に部屋でひとりで試して、ある日外に出てみた」という質疑がすごくいいなあと勇気付けられて、休日に試している。顔を変えるのって面白い。

やってみてわかるのは、ドラァグメイクめっちゃ難しいやんということである。しっかり生えてる眉毛を消したり、美しく見えるようにダブルラインを入れるのはすごく難しい。コントゥアリングを濃くのせて、顔の形を骨格を活かしながら引き締めつつ、泥人形っぽくならないようにキレイに仕上げるためには、自分の顔の造作と、使う化粧品への深い理解が必要だ。「いつも美しいなー」と思わせてくれる人ってめっちゃくちゃすごい。

美大生時代から「ギャルは自分の顔に毎日美人画を描いてるようなもんやから日本画の適性があるはず」(美の内容は個人の自由とする)と主張しているが、ギャルメイクとドラァグメイクには親和性があるんだな…と思った。顔に顔を描く文化である。

 

まとめ

季節と気持ちに合わせてアイテム変えるのはめんどくさいけど、手のかかる動植物育てるのと同じ感覚で楽しんでやりましょう。趣味だから。

推しのドラァグクィーンに会えることになった日の

日記です。

 

人生において何度かある「このために生きてた」的な感覚

クリスマスの朝にSFCDQ5がツリーの下に置いてあったときの夢のような出来事、遠足で行った宇治の川辺が胸に刺さる美しさだったので「一度は見たい美しい観光名所」のようなありがちな広告コピーは架空の感覚ではないと子供心に理解したとき、初めて飛行機に乗ったとき、心から好きだと言える音楽を見つけたとき、トーマの心臓を初読したとき、近代文学にハマって現代文学が読めなくなったとき、アイドル(あかりちゃん)を初めて肉眼で観たとき、最高的に盛り上がっている恋の第二章がドラマティックな展開でスタートしたとき、期待半分でも絶対受かりたい試験をパスしたとき、めっちゃくちゃ良い作品の前や、クソでかい最高の寺院(アヤソフィア)の中に立ったとき、など。

胸が震えて平静でいられないような、堪らない気持ちになる。生きているとそんなことが稀にある。とまどいと興奮と期待と緊張で気が変になりそうな、このために生きててよかったと言えるような事件的感覚を、久しぶりに噛み締めている。

 

ルポールのドラァグレースの

WERQ THE WORLD in TOKYO

のチケットを買った。。。。

 

ジャニオタとして「チケットとは基本的に取れない(と思った方が精神的に良い)もの」という世界観で生きているので、発売開始時刻に凸したのだが、あっけないほどにあっさりと優先入場券が取れた。(25000円のミーグリ券はさすがにひよった)(買ってもよかったとも思う)

まじでいいの?ほんとに?ほんとにいいの?

こんなに戦わずしてバイオレット・チャチキとアクエリアに会う権利得られていいの……????

いいの…?

いいのか。。。。。。。。。

めっちゃ天才に会えるのまじで。。。。

嘘だろ…

まだ買っただけなのに……

生きててよかった…

 

(完)

 

 

この気持ちはなんだろう

誰が読んで面白いねんこの内容というモノローグの垂れ流しをブログにわざわざ書くなよという気持ちにもなるんだけど、2019年はしばしば「自分大丈夫なのか」と思うくらい総じてドーパミンがあまり出てないし、退廃的な時間の使い方や行動パターンをしてしまう中で、わりと久しぶりのガツンとくる良い感覚は覚えておきたい気がした。

もちろん日々の中で穏やかに湧き上がる幸福や吉兆はある。しんみりと味わうようなステキな気持ちになる出来事もあるんだけど、頭にぶつかった真っ金色の鐘がガランガランとなるような祝福すべき大当たり!感は大人になって普通に生活していると、なかなか無い。(カランカランカランカラン!くらいのそこそこ良いやつはあります。)

おかげで「この幸せに類似するものはなんだったか。今までの人生でショッキングに嬉しかった体験はなんだったか」と頭を巡らせた結果、忘れていたような出来事まで思い出すことになった。脳が良い連鎖的な動きをしてると捉えても良いのでは。健康になろう。

 

 

チャチキちゃんとアクエリアが好きなんだよマジで

日本公演向けの出演者なのかは分からないが、今回の参加クィーンはビジュアル良いマン(個人的解釈)が集結しており、それが個人的にかなりの興奮材料になっている。ドラァグレースはワンシーズンにひとり推しを作るという個人的なルールで視聴しているのだが、このイベントでは奇跡のように推しが4人参加している。私はすべてのジャンルにおいてビジュアルが優れてる子(個人的解釈)が幼稚園の時から好きなんだよ!性癖なんだよ!ビジュアルは才能と努力と内面の結晶なんだよ!なにこれカウコンなの。3月2日に死ぬのかよ。

プラスティークは山田涼介に似てんなあと思う甘いマスクで振る舞いも上品。きれいな水のように美しい。きれい。

キムチーは現代的に高感度で、ナイーブな側面を見せるも飛び抜けめディレクションが素晴らしいのはめちゃくちゃ人として強度と複雑さがあるのではとインタラスティング。かわいい。

そしてチャチキちゃん、1回目の視聴では圧倒的な自信と美しさに毎回ノックアウトされ、めちゃくちゃキレイで尖ってる人が出てきたなー!と思った。shadyだと自分でも思うというインタビューは「そうかなーもっとshadyな人いたのでは?」と感じたが、次シーズン初回を見た際、ツンとした涼しげな目つきに「お?」となった。もう一度シーズン7を頭から見返すと、目つきが、挙動が、余裕でクールでたまらない。いい。そしてビジュが良すぎる。すごい。見た目がとても良くて内面がクールな人ってマジでいい。いい。

アクエリアはずっと安定的最高なんだけど最終回のリップシンクの「Bang Bang」が良すぎてひっくり返った。股間に花火をバンバン叩きつけてぶっ放してんのに一番かわいいってどういうことなん…ってなった。当シーズンでは「America」を終盤に推してきた構成に応えるようなコスみのある衣装と課題曲にそぐう割と下品ともいえるはすっぱなパフォーマンスを身体性つよくかましており、「ああこの人頭いい」「身体能力もたかい」「サーシャ・ベロアの次のスーパースターってどうすりゃいいのという期待にガッチリ答えてるやん…」「ハイレグ…」と感動した。

 

万が一アドレが来てたら死んでた

死んでた。(変わらずチームアドレです)

 

まとめ

生きててよかった。3月まで真面目に生きます。

2年前書いたやつ(耽美な文体いまさらできない)

アーカイブスです。

しばらくブログをサボっていた。三連休が終わりそうな不安感を紛らわすために携帯の整理をしていたら、誰に見せるでもなく書いていた昔の文章がアレコレ出てくる。わりと今と文体が違うのが自分のことながらおもしろいのでおぼえがき。

なにかを意識しているような大仰な書き方は最近する気にならんなあということで個人的アーカイブスしてもいいかなーと思ったが、結構シェイムである。考えていることの本質についてはあまり変化はないがこのかんじの文章表現をするロマンチシズムは今のところ失われている。以下章題とまとめ以外ほぼコピペ(あまりにもシェイムな部分は書き直した)

 

 

死を意識した瞬間

うだるような暑さが落ち着いてきた初秋、活動期を迎えた蜂がオフィスや自宅に飛び込み、軽い騒動になることがたまにある。
そのたび、大学四回生の秋、学祭の片付け中にスズメバチに刺されたことを思い出す。それはファーブル昆虫記の挿絵に描かれているような綺麗なスズメバチだった。


そのとき軽音部員であった私はライブの会場にしていた学生食堂のテーブルの上に靴を脱いでよじ登り、天井近くの窓に貼っていた暗幕を剥がしていた。昨夜までひたすら酒を飲み議論をし騒ぎ、近所から苦情が来ない程度の爆音で音楽を流し楽器を鳴らしてわーっとしていた人たち同士が同じ場所にいたが、翌朝は誰もろくろく会話をする体力も社会性もなく、目を合わさず無言で撤収作業をしていた。

そんな折、内太ももに鈍く刺すような痛みを突然感じた。ポケットの中に朝イチで解体した模擬店の小屋の釘でも入れてしまっていたかと思うが早く「いや、さっきスズメバチが床に落ちていたのを見たな」と思い当たった。
その場で服をたくし上げて確認することもできないので、近くで作業をしていた後輩に「私、蜂に刺されたかも」と告げ、食堂近くの女子トイレへと駆け込んだ。個室の中でワンピースの裾をめくると、スズメバチが服の中でブンブン飛び回っている。
なぜ蜂に対してなんの危害も与えていない私が理不尽に暴力を振るわれなければならないのかと、怒りがこみ上げた。個室の中で始まったデスマッチ、死に物狂いのスズメバチに脇腹や脚をさらに三箇所ほど追撃されながらも、バシバシと力任せに叩いて殺した。それでは飽き足らず、さらに靴で踏み潰し便器に流した。スズメバチが万が一蘇ったら間違いなくもう一度攻撃されるだろうという予見もあった。「やったか?!」が禁忌なのは知っている。

こんなに暴力的な対峙は後にも先にもない。私は、殺意には殺意で返す人間なんだな…となんとなく思った。

 

死に向かう

トイレから出ると、心配していた後輩がすでに119番をしており、数分後には人生初の救急搬送をされた。救急車にはその場に居合わせた友人が同乗してくれた。
救急車のベッドの上で、「あ、これで死ぬのかも知れない」と思った。

スズメバチに刺されたら、運が悪ければあっさり死んでしまうという印象を抱いていたことと、これまで大きな病気や怪我とは無縁な人生を送っており身体に危機を感じるような経験が極端に少なかったことが現実的な死をイメージさせた。数日間の祭りが死によって幕引きとなることに、なんとなく満足を感じた。
秋の天気のよいあかるい昼日中に救急車に乗って運ばれていく。楽しく幸せな記憶を反芻しながら、友人に看取られて死ぬ。これまでの嫌なことも良いことも、努力したことも、怠惰であったことも、全部打ち止めだ。
私を知る誰もが、不幸な事故だったがスズメバチに刺されてしまっては仕様がない、死ぬ間際まではさぞ楽しかっただろうに、と思うに違いない。死ぬのならこんな時が一番いいと腑に落ち、もう死んだような気になって大いに涙が出た。蜂に刺されたくらいで死んでしまうものではないと思っていた友人は、私がなぜこんなに泣くのかと不思議だったという。

 

それから・蜂=死
その後、私は当たり前に死なず、生活の中に蜂が飛び込んで来たときは「私は一度刺されているので今回やられたらすぐ死ぬ」と言って、我先に蜂から逃げ回る暮らしを続けている。
蜂は死のイメージと強くつながっている。蜂は死の約束を果たすことを誘い投げかけてくる。蜂に刺されることが死のきっかけとなるのなら、いつでも私はあの日を想起する。私の死を悼んでくれる人々は、秋の最中の学祭の片付けの日に思いを馳せるかもしれない。様々な思いを抱えて過ごした学生の時分へと時が戻っていく。
そんなことを思うと、私の命を握る蜂への忌避と愛着は不思議と深まる。蜂に出会うたびに、まだ今この場所で死にたくないという気持ちと、全てを差し置いて今死んでしまっても良いと思う気持ちとが私の中でせめぎ合う。

 

 

まとめ

このあと、自宅の寝床で死ぬ死ぬロマンにひたりまくって、当時現金欲しさにイヤイヤやっていた祇園の飲み屋のバイトを二日続けて無連絡でサボった末クビになりました。現実とロマンチシズムとの折り合いな。

切り札は切らないでいく方がいいのではないかなーという雑感

雑記。概念的な話です。

 

 

切り札は出さないことに意味がある

世の中の人は、それぞれ心の中に切り札をお持ちかもしれない。「そのうち切り札切ったるぞ!」という喧嘩腰でギリギリなパーソナリティを持ってる人だけかも知れないけど、表面的にはそつなく生きようと努めているが、心にしまった刃物をいつか出したるぞ…と定期的に思っている社会的に危ないマンは世の中に潜んでいると思う。今めちゃしんどいけどまだ出してないからまだ大丈夫、と自分を観測するために持ってる人もいると思う。

 

切り札は出さない方がいい。切ってしまったら後に引くことができなくなって結局自分が出したことによるプレッシャーで果てしなく無駄にしんどくなったり、思ったより切れ味が鈍くておたおたしてしまったらマジでしんどいに決まってる。後に引けなくなって、色んな場面で同じ札を出しまくって「もうええっちゅうねん」って周りが思うようになって、同じ中身で程度をひどくしていよいよ実際的に取り返しがつかないことをやってしまったりしても、もーどうしようもなくなる。

 

 

ここでいう切り札ってなに

勝ち確を宣言する圧倒的パワーを持った最高の隠し球ではなく、ネガティブ方面の背水の陣切り札の話です。なんとなくとらまえると、こうなったら後はもう場の破壊しかない断絶の覚悟を持った言葉、行動の用意、いわゆる「バルス」である。(ラピュタ作中におけるバルスは勝ち確宣言ではあるんやけども)

 

 

脅迫してはいけない。

切り札を切るとこは相手に対して自分に対する処遇の改善を求めることである。

自分からはもうこれ以上のものは出ねーぞ!という大立ち回りをした結果、相手も割と真剣味のある札(相手も切り札かも、違うかも)をカウンターで出された時に相手の札が普通に強かったらこっちが困ってしまう。

それなら自分が困るだけなのでダサく引っ込めば済むのでまだマシなのだが、相手が自分の切り札に驚愕して参って言うことを聞いた場合、その強すぎる札をバンバン叩きつけることで相手を痛めつけ、思うままにして一時的にことを運んだ場合、第三者視点ではそれは流石に警察呼んでー!レベルの暴力の範疇になることもある。それは果たして望んだコミュニケーションなのか。こっちもこっちでギリギリで、向こうもそれに対応して顔面蒼白。だいたい個人的な切り札が効く相手は自分をいろんな意味で軽視していない人のみである。そんな人がいる時点でなんしか交渉の余地があると思った方がいいかも知れない。(無い場合もある)

自分を軽視していない人を脅かすようなやりとりが延々と続いた後にはなにが残るのか。それを見かねた第三者に「やりすぎだよ!常識的じゃないよ!」と介入されたら、場が混乱してなおさら話はめちゃくちゃになる。世界は当人だけのものではないので、追い詰められた人は追い詰めてくる相手以外に当たり前にヘルプを出すことになる。

 

 

なんの話なのというと(まとめ)

最近何人かげきつよな切り札を切ってる人たちがいて、もし理性的であれば壊れなかったかも知れないのものを派手にぶち壊しにしていく過程を見ていて(壊れてよかったものもあるが過程はハードだった)、なんつうか誰にとってもしんどさがある案件だよなあ、話も無駄に大きくなるし、これはいかに…と思ったというふりかえりです。

人生は長いから、あんまり自分の周りを焼き尽くすような極端なコミュニケーションの仕方をしない方がいい、という自戒を込めて思い返す。

かなり時間が経ってからふとまたそのへんに行くことになるケースもあるし、自分のやったことのせいでどこかに行けなくなってしまったら単純に面倒だと思う。何事もあんまり思い詰めずに、適当にそこまで嫌な状況になる前に場を整理する努力をしながら生きるか、またはそこまで個人的に追い詰められるほど嫌な場所で耐える前に、穏便に別の場所の可能性を探った方が上手くいくかもしれない。うーん。なんか色々あるので難しい。理性大事。

内容はともあれSNSの内面化はあんまよくないと思ってる

クソ話です。

 

SNSの使いわけ

現代っ子の嗜みとして、各SNSで使い分けをなんとなくしてる。

インスタはプライベートのわたくし本人として、自分にとってグッとくることの記録のために使っている。

あとで見返したときに楽しい思い出を反芻して良い気分(気分が悪い時のセルフメディケーションです)になったり、なんか覚えていられなさそうだけど、なるべく覚えときたいと思ったことを投稿する。更新頻度も気分のままにして「この時期の私調子いいなー」と振り返る。ここ数年以前はもうちょっとテキトーに投稿していたが、最近はわりと自分を観測したいと思いながら運用してる感がある。

その辺で見かけた変なものとか気になるものも記録用に投げてる。基本は事実ベースで個人的振り返り用。

 

ツイッター本垢はマジでクソ話しかしていない。ツイッターでしか繋がっていない人は「この人クソ話しかしないな…」と思っていると思うが、クソ話したいときしかツイートしないんです…。常時ログインしているのはドル垢で、自分とあんま関係ないどうでもいい話しかしない。プライベートともほぼ関係ないので、一番気楽に運用してる。

はてブは出来事と考えたことを合わせてネチネチ綴っている。文章を書いてストレス発散するのが好きなので頭のスポーツジムみたいなものだ思っており、健康のために定期的に更新しようと思っている。この記事を書くこともジムでテキトーにランニングするのと同じメンタリティです。内容はネチネチと書くのであとで見返したときにあんまりげんなりしないようにはしたいと思ってる。あとなるべく感覚的に嘘をつかないようにしてる。

 

インスタで複垢したい

してる人多いけど公式アプリだとアカウントの切り替えめんどくさくないですか。ちゃんと調べてないけどどうやってんのかな。

なんかクソどうでもいいお花畑な内容ばっかり投げる別人格アカウントを作りたい。

理由としては、元々それぞれのSNSで役割を分けるのが好きなんだけど、いちいち考えすぎなのと、セルフフィルタリングをして暗いもしくはめんどくさい内容ばっかり投稿してることが内面化されてきて、余計めんどくさい人間になってる気がするのを緩和したくなった。もっとペラペラだったり勢いしかない内容を上げまくってたらそれが内面化されてもう少しライトなマインドを持った人間になるのではないかと思う。なんでインスタがいいかというと投げたい内容がインスタ向きな気がするから。ツイッターでこれやってるとなんか頭おかしい感じになるのでインスタのライトさがよい。

理想の投稿の方向性はこんなん。

 

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途中でなんか虚しくなってきたので雑コラ。こんな明るい時間に帰れねーよアホか。

 

 

まとめ

思いつきで仮にやってみて、例文打ってる時点で継続すんのアホらしくなりそうだと思った。

しかしSNSは自分用と言いつつも自分の外側への発語としてやっているし、なんらかのクセが誰しもあるとは思う。内面化は多少の影響なきにしもあらずだと思ってるのでヘルシーに運用できへんかなと思ったがそこまでする真剣度は私の中でなさそうだと確認した。