おぼえがき

なにをかいわんや

切り札は切らないでいく方がいいのではないかなーという雑感

雑記。概念的な話です。

 

 

切り札は出さないことに意味がある

世の中の人は、それぞれ心の中に切り札をお持ちかもしれない。「そのうち切り札切ったるぞ!」という喧嘩腰でギリギリなパーソナリティを持ってる人だけかも知れないけど、表面的にはそつなく生きようと努めているが、心にしまった刃物をいつか出したるぞ…と定期的に思っている社会的に危ないマンは世の中に潜んでいると思う。今めちゃしんどいけどまだ出してないからまだ大丈夫、と自分を観測するために持ってる人もいると思う。

 

切り札は出さない方がいい。切ってしまったら後に引くことができなくなって結局自分が出したことによるプレッシャーで果てしなく無駄にしんどくなったり、思ったより切れ味が鈍くておたおたしてしまったらマジでしんどいに決まってる。後に引けなくなって、色んな場面で同じ札を出しまくって「もうええっちゅうねん」って周りが思うようになって、同じ中身で程度をひどくしていよいよ実際的に取り返しがつかないことをやってしまったりしても、もーどうしようもなくなる。

 

 

ここでいう切り札ってなに

勝ち確を宣言する圧倒的パワーを持った最高の隠し球ではなく、ネガティブ方面の背水の陣切り札の話です。なんとなくとらまえると、こうなったら後はもう場の破壊しかない断絶の覚悟を持った言葉、行動の用意、いわゆる「バルス」である。(ラピュタ作中におけるバルスは勝ち確宣言ではあるんやけども)

 

 

脅迫してはいけない。

切り札を切るとこは相手に対して自分に対する処遇の改善を求めることである。

自分からはもうこれ以上のものは出ねーぞ!という大立ち回りをした結果、相手も割と真剣味のある札(相手も切り札かも、違うかも)をカウンターで出された時に相手の札が普通に強かったらこっちが困ってしまう。

それなら自分が困るだけなのでダサく引っ込めば済むのでまだマシなのだが、相手が自分の切り札に驚愕して参って言うことを聞いた場合、その強すぎる札をバンバン叩きつけることで相手を痛めつけ、思うままにして一時的にことを運んだ場合、第三者視点ではそれは流石に警察呼んでー!レベルの暴力の範疇になることもある。それは果たして望んだコミュニケーションなのか。こっちもこっちでギリギリで、向こうもそれに対応して顔面蒼白。だいたい個人的な切り札が効く相手は自分をいろんな意味で軽視していない人のみである。そんな人がいる時点でなんしか交渉の余地があると思った方がいいかも知れない。(無い場合もある)

自分を軽視していない人を脅かすようなやりとりが延々と続いた後にはなにが残るのか。それを見かねた第三者に「やりすぎだよ!常識的じゃないよ!」と介入されたら、場が混乱してなおさら話はめちゃくちゃになる。世界は当人だけのものではないので、追い詰められた人は追い詰めてくる相手以外に当たり前にヘルプを出すことになる。

 

 

なんの話なのというと(まとめ)

最近何人かげきつよな切り札を切ってる人たちがいて、もし理性的であれば壊れなかったかも知れないのものを派手にぶち壊しにしていく過程を見ていて(壊れてよかったものもあるが過程はハードだった)、なんつうか誰にとってもしんどさがある案件だよなあ、話も無駄に大きくなるし、これはいかに…と思ったというふりかえりです。

人生は長いから、あんまり自分の周りを焼き尽くすような極端なコミュニケーションの仕方をしない方がいい、という自戒を込めて思い返す。

かなり時間が経ってからふとまたそのへんに行くことになるケースもあるし、自分のやったことのせいでどこかに行けなくなってしまったら単純に面倒だと思う。何事もあんまり思い詰めずに、適当にそこまで嫌な状況になる前に場を整理する努力をしながら生きるか、またはそこまで個人的に追い詰められるほど嫌な場所で耐える前に、穏便に別の場所の可能性を探った方が上手くいくかもしれない。うーん。なんか色々あるので難しい。理性大事。