おぼえがき

なにをかいわんや

皆おんなじだけやれる程度でベストを尽くせば何事もイヤではないのである

昔読んだ教科書の中の文章で、よく思い出すくだりがある。

アメリカの国道の真ん中でトラックの荷積みをしている男が二人いる。暑く過酷な気候の中で、二人はロープを投げ渡し、積荷を縛っている。単純できつい仕事だが、彼らの表情はあかるい。彼らの気持ちが通じ合っており、仕事に対するモチベーションが一致しているからだ。仕事とは内容ではなく、誰とするかなのだ」

みたいなやつ。たまに思い出しては出典はなんだろうと思い、「国道 ロープ 教科書」などと検索するのだが出てこない。検索下手かよ。出てこない。

私は人と関わりながらとてもよい気持ちできつい仕事をこなしたとき(ハードな肉体労働でなくても)この情景をいつも思い出す。記憶の中で多少色々な要素が変わり、加わって、見つけられないでいるのであろうが、物事はそうであるなら健全だという観念が私に染み付いている。

 

 

アトリエの引越しをした。

基本的にはカレンダーどおり休みマンなのですが10連休とされる10日間のなかで、初日は日中仕事、夜は荷造り、翌2日間荷運び、ゴミ捨て、という、わりと「やらねばや」系の予定が前半に詰め込まれている感じだった。

平日イヤイヤ働いた後にシームレスにハードな肉体労働が待っているので、私の身体頑張ってなんとか予定通りこなして、という懸念があった。

単純に身体的にしんどいなぁ〜〜と思う事案ではあるのだが、私がこういうときに心配するのは「私の身体、満足に動くんかいな」という方面ではなく、精神的に気持ちよく働けるか、途中で「あ〜〜疲れたなあ」「も〜〜なんか全体的に動きが悪くてやだなあ…」と思ったりして、それが顔や態度に出ないかな?私にとって不愉快なモチベーションで頑張らなくてはいけない状況が待ってはいないかな?ということが心配になったりする。なんだかんだ身体はまだ動くお年頃である。

短期間で集中力が求められるワークの中では、気持ち的に他者を「この人は今なにしてんのかね」と思ったり、私が「ああもうちょい頑張りたいけどついてこなくて人に迷惑をかけたり気を遣わせたりしている…」というムードになるとより疲労感が増す。ムード派なのだ。

 

そんな中でどうなるかしら、なにかしら疲れるやろうなあ、と思っていた引越し作業であったが、非常に気持ちよく働くことができた。

メンバー全員にフラットに当事者意識があり、だれがだれよりも頑張って当然みたいな目に見えない精神的齟齬がなく、率先して作業をしようという主体性があった。

さらに、皆他者がどう動いていて今やったほうがいい作業は何かと頭を働かせていて、無駄に人数が割かれたり、動いていない人、不平等に楽している人がいる時間がほぼなかった。お互いに指示を過度に出し合うことなく役割分担がフレキシブルに出来ていた。

それぞれがよく動いているアンド、メンタル的にギスギスする気持ちがないので、休むときはみんなで思い思いにそういう流れになって、ちょうど良く休憩する尺があったのもギリギリ感がなくて良かった。

結果として体力的には学生時代でもこんなにワーなることあったかな?と思うくらいの場所、モノの移動があったにも関わらず、精神的にはストレスがほぼない感じで引越し作業が終えられた。こんなことは仕事ではほぼない。とても良いメンバーに恵まれたと思い、とても良いモチベーションで本来は非常に面倒で負担大とも言える作業が終えられたことにありがたさを感じる。物事はこうであれるし、こうでなくては。

 

生活や職場でなんらか避けられないハードワークがあって、それぞれの前提で気持ちがイライラすることはままあって、むしろ無い方が奇跡と思うのだが、メンツが揃っていればタイミングの不如意さ、わけわからんくらいめちゃ体力いる、そして時間ない案件でもイヤ〜〜な思いをせずに乗りこなせることはあるんだよな…世の中には。と思える二日間だった。

1tトラック満載の5往復の荷物の移動、850kgの廃棄物処理に関わり、普段運動をしていない身体は各々の程度でバキバキだが、関わった人をより好きになり、よく働けて良かったなあ、引越し先では今まで以上に楽しく作業できそうだあ。と思う。

 

まとめ

心のつながりがあれば、しんどい仕事も心は楽しい!

引越し無事に終わって良かったー!